「先生、咳止めも吸入薬も全部使ったけど、夜中の咳が止まらないんです…」
先日、そんなお悩みを抱えた患者さんが来院されました。 呼吸器内科で喘息と診断され、しっかり治療しているのによくならない。「もしかして、悪い病気なんじゃないか?」と不安げな表情です。
結論から言うと、この方の咳の犯人は**「心臓」でした。 いわゆる「心不全」**です。
「えっ、心不全? 私、健康診断で心臓の動きは良いって言われたことありますよ?」
そうなんです。ここが循環器内科の奥深く、かつ一番怖いところ。 今日は、教科書的な説明ではなく、私たち専門医が現場で遭遇する「隠れ心不全」のリアルについて、少し踏み込んでお話しします。
聴診器だけでは分からない「犯人」の正体
冒頭の患者さんの話に戻りましょう。 聴診器を胸に当てると、確かに胸から「ヒューヒュー」という喘息のような音が聞こえます。 しかし、私はここで胸だけでなく、あえて**「足」と「首」**を見ます。
- 足のスネ: 指で押すと、低反発枕のように跡がくっきり残る(浮腫)。
- 首の血管: 座っているのに、首の静脈がパンパンに張っている(頸静脈怒張)。
これを見た瞬間、私の頭の中では「喘息治療」から「心不全治療」へとスイッチが切り替わります。 さらに決定打となったのは、患者さんの何気ない一言でした。
「そういえば、昨日の夜はお漬物が美味しくて、ご飯をおかわりしちゃって」
犯人は「塩分」です。 塩分を摂りすぎて血液中の水分が増え、弱った心臓がそれを捌ききれずに肺に水が溢れ出した(肺うっ血)。その水が気管支を圧迫して「ヒューヒュー」言わせていたのです。 これを専門用語で**「心臓喘息(しんぞうぜんそく)」**と呼びます。
この患者さんは、利尿薬(余分な水分を尿として出す薬)を使った翌日には、「嘘みたいに咳が止まった」と笑顔になられました。吸入薬ではなく、心臓の負荷を取ることが正解だったのです。
心臓は「動いていればOK」ではない
さて、ここからが今日の本題です。 多くの患者さん(そして一部の医師も)はこう誤解しています。
「心エコーで心臓が元気に動いているなら、心不全じゃないですよね?」
これ、大きな間違いです。
最近の循環器領域で最も注目されているのが、「HFpEF(ヘフペフ)」と呼ばれる心不全です。 日本語で言うと「収縮能が保たれた心不全」。
どういうことかというと、心臓のポンプとしての「縮む力」は正常なのに、「広がる力(拡張能)」が落ちて硬くなっている状態です。
イメージしてください
- 健康な心臓: 柔らかいゴム風船。水が入ればスムーズに広がり、また縮む。
- HFpEFの心臓: 硬くて分厚い革のボール。縮む力は強いけれど、硬くて広がらないから、中に水(血液)が十分に入ってこない。
結果として、入りきらなかった血液が手前で渋滞し、肺に水がたまって息切れが起きます。 ご高齢の方、特に高血圧が長かった女性に非常に多いこのタイプは、一般的な検診や心電図だけでは簡単に見逃されてしまいます。
専門医は心エコーで「E/A」、「E/e’」、左房拡大を見ている
では、私たち循環器専門医はどうやって「隠れ心不全」を見抜くのか? ここで再び登場するのが心エコー検査ですが、ただ「動き」を見ているわけではありません。
私たちはマニアックな数値を見ています。それらがE/A(いーばーえー)、E/e′(いーばーいーぷらいむ)といったものです。
(詳しい物理学の話は割愛しますが…) これらは「心臓の筋肉がどれくらいリラックスできているか(柔らかいか)」、心臓の圧力が高いかどうか(心臓の中に水が溜まっているのかどうか。)を数値化したものです。 画面上では心臓がバクバク元気に動いていても、この数値が高い(=心臓が硬い)と、「あ、この息切れはHFpEFのせいだな」と診断がつきます。
「心臓ドックで異常なしと言われたけど、息切れが治らない」 という方は、単に心臓の動き(収縮)だけを見られていて、この「硬さ(拡張)」の評価が見過ごされていることがあるのです。
結論:咳や息切れは「犯人探し」が9割
「咳が出るから咳止め」「むくむからマッサージ」 それは対症療法にすぎません。
- その咳は、気管支の炎症か? 心臓の水漏れか?
- その息切れは、肺が悪いのか? 心臓が硬いのか?
この「犯人探し」を間違えると、治療しても一向によくなりません。 逆に、犯人さえ特定できれば、冒頭の患者さんのように劇的に良くなることが多々あります。
「風邪にしては長引くな」 「歳のせいにしては、急にガクッと体力が落ちたな」
そう感じたら、一度ご相談ください。 聴診器一本、エコーのプローブ一本で、体の中で起きているミステリーの謎解きをします。


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